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snartasa.hatenablog.com

(千田氏)私の論文において、ジェンダー・アイデンティティや身体の構築性の「発想がトランスに帰属させられた」ことはない。考えてこともなかった。これがネットでは流通しており、非常に困惑している。

私が論じているのは、アイデンティティや身体までもが「生物学的な所与」であることを離れ、その構築性があきらかなった「時代」であるということである。まさに1章で述べたC-16がその証拠である。新自由主義的な潮流を背景に、トランスのみならず、すべての人のジェンダー・アイデンティティやジェンダー表現が尊重されることが法律で定められるようにすらなってきているのだ。これは事実的な指摘である。

(ゆな氏)以下を読んでいただきたいです。

(千田氏)本来的にはグラデーションでしかない私たちの身体が、いかに言語によって「典型的な男性」や「典型的な女性」としてくさびを入れられ、カテゴリー化され、この社会に生存させられるようになるのか。「身体」までも社会的に構築されているのだという考え方は、人文・社会学系のジェンダー論研究者で否定する者は、もはやいないだろう。

そしていまや、それらの動向を踏まえてあきらかに第三期に入っている。こうした第二器のジェンダー・アイデンティティや身体の構築性を極限まで押し進めた際に、身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされるのであったら、その再構築は自由におこなわれるべきではないかという主張である。

これはトランスに限らない。美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥーなどの身体変容にかんする言説を検討すれば、身体は自由につくりあげてよい、という身体加工の感覚は私たちの世界に充満している。[……]

身体は作られる。アイデンティティは構成される。こうした構築性が意識されるのは、あきらかに第一期の「解剖学が運命である」という意識を解体しようとする第二期の営みの成果ではある。いまや、身体もアイデンティティも、自由に選んでよいものとなった。「ジェンダー・アイデンティティ」は生まれながらにして所与であり、変更不可能であるからこそ、手術によって身体を一致させたいというGIDをめぐる物語が典型的に第二期的なものであるとしたら、たまたま、「割り当てられた」身体やアイデンティティを変更して何の不都合があるだろうかという論理は第三期的ななにかである(どちらが優れているといっているのではない。これらは理念型であり、現実には両者の論理はもちろん混在し得る)。(251頁)

(ゆな氏)ここからジェンダー・アイデンティティを自由に構築する存在としてトランスが描かれている(GIDと対比されつつ)と読み取るのは誤読でしょうか? もし誤読なら、はっきりと「とはいえトランスのジェンダー・アイデンティティは自由に構築されるものではなく、実際には当人たちにも選択の余地のないものなのだ」と書いてください(応答からすると、そう思っているのでしょう?)。


 正直この話題にあまり突っ込みたくないんで言及しないつもりだったんだけど、一つ気付いたんで軽く指摘したい。

 これ、多分「構築性」という部分の解釈で食い違ってるよね。千田氏の方は「"社会的に許される範囲"が言葉や体に縛られる事なく自由になり、これまでの"生まれながらに割り当てられていたあるべき形(フィクション)"に束縛される必要がなくなった」という「社会的な束縛からの自由」を主旨としているのに対し、ゆな氏の方は「個人の絶対的な自由」として読解している。

 おそらく「再構築」という表現をそのまま本人が主体的に取る行動だと認識したのだと思われるが、その前の段落で「身体までも社会的に構築される」と述べている様に、この場合は社会規範がジェンダーやアイデンティティに及ぼす作用を「構築」と呼んでおり、「再構築は自由に行われるべき」というのは「今後の構築は社会規範に縛られるべきではない」という事を指していると考えるのが妥当だろう。GIDのくだりも、あくまで現在ではなく"ジェンダー・アイデンティティの定義が自由ではなかった頃"におけるGIDの話を挙げて「第二期的だ」と示しているだけで、別に現在のトランスとの対比ではなく、美容のくだりを発端にして「身体を自由に作り上げてよい」という社会意識が確かに形成されている事を説いてるだけに過ぎない。


 *なお、この指摘はあくまでゆな氏の記事に記載されている引用部分を読んだ私の感想であって、千田氏の寄稿を全て読んだわけじゃなく、また私は千田氏本人でもないので、妥当性は必ずしも保証出来ません。