Dog ears

更新時間 09:30、10:30、11:30、13:30、14:30、15:30、18:30、19:30

無題

私は時々、承認欲求や自己肯定感についてネットの人々が語らっている姿を見ると、何とも言えない違和感を覚える。人から承認されたい?自分を肯定したい?そんな簡単な事を、心から欲している?承認される方法なんて誰でも知っている。正しい事をすればいい。正しいタイミングで、正しい言動をするだけで、人は容易に賛同する。自分を肯定したい?自分の欲望を満たせばいい。美味いものを食い、体を動かし、娯楽に浸って、よく眠れ。承認や肯定とは即ち安定を意味し、それには歯車を回し続ける事が何よりも重要と言える。普段当たり前にやっている事をより正確に行うだけでいい。そう伝えると、きっと彼らは「そんな事じゃない」と言うのだろう。何故なら彼らには「自我」があるからだ。自分というものを定義するアイデンティティそれ自体が彼らを縛り、安易な承認や肯定ではなく、より高度で複雑な幸福を望む。個性の尊重。みんながオンリーワンの存在であり、自分の弱みも受け入れられる社会において、彼らは単純なルールに従う必要性がなくなり、何の裏付けもない舞台の上で品定めされる立場になった。つまり、人格の消費だ。彼らは自分達の中身を売り物にして、承認や肯定の欲求を満たそうとしている。正しい事を言うから認められるという理屈が裏返り、自分という存在が正しいから認めろという主張にすり替わる。だから、その主張を否定されると容易に自己が揺らぐ。その批判を覆さなければ自分の存在が認められないという錯覚に陥る。正面からの反論が出来ず、印象操作に走る。結果、本当に嫌われる。それから目を背ける様に自分を晒し続け、「理想の自分」を作り出す。しかし読者はそれが虚像だと見抜いている。どんどん焦げ付いていく。私は正直、自己表現なんてどうでも良いものであると考えている。自分というものはいつだって醜悪だ。過去を紐解けば頭の痛くなる様な記憶は腐るほどある。社会性とは即ち自己を上手く隠すことであり、承認や肯定は全面的に求めるものではなく、必要な時に一瞬だけあればいいものだ。そういうスタンスでいると、承認欲を満たすことなど造作もないものだと思う。そして、そこにはそこの矛盾がある。「こんなにも簡単に肯定される」。自分というものはもっと醜いのに。承認されたいのではない。「承認したい」のだ。みんなみんなきっと、私より素晴らしい人間であるはずなのに。どうしてそんな小さなことで身を焦がして醜態を晒すのだ。これでは承認も肯定も出来ない。クソったれ。こっちは批判されたいのだ。打ちのめされたいのだ。どうしようもないこの自分というものを曝け出して、罵倒され、大声で泣きながら懺悔する機会を待ち望んでいるのだ。しかしそんな本音を打ち明ける相手などいないし、そんな勇気などない事も最初から分かっている。批判のやり方ばかり上手くなる。きっと彼らには私の様な存在は卑怯な人間にしか見えないのだろう。別にそれを否定したいとも思わない。間違いを認めたのであれば素直に頭を垂れて謝罪する。しかる後に撤退し、もう一度考えを練り直す。いつもの私の流儀だ。欲しいものを手に入れるには常に勝つ必要は無い。いっそ完全に負けて、一から組み立てなおす事で、かえって利益を得るという事は少なからずある。私は正直、若い内にそれを知ってしまった事がひどく悲しい。私は恵まれているのだ。不幸は沢山あったが、それ以上に幸せに満ちた人生であると自負している。そしてそれは、必ずしも私の実力や本性とは比例しない。一皮むけば卑しい餓鬼がそこにはいる。少しつついてやれば「まだ足りない」と言う。その欲望に限りはない。人は欲しいものが手に入れば幸せになれると信じているが、それは根本的に違う。価値があるのは、手に入れるまでの過程、努力や挫折や失敗や成功という経験であり、手に入れたそのもの自体はそれがきっと何であれ拍子抜けするほどくだらないハリボテなのだ。そしてそのハリボテに固執して人は人生を狂わせる。更にはそこからねじくれた啓示を見出して「モノを手放す事が幸せに繋がる」などと宣う輩もいる。例えそれがハリボテであっても、失ったものは返って来ない。執着すれば振り回され、突き放せば後ろ髪を引く。人間の欲望とはそういうものだ。だから「知らない方が良かった」と思ってしまう。悔しいのは、それを何度経験しても同じ事を繰り返してしまう事だ。学習能力のなさを嫌というほど認識する。今度こそは、と一縷の望みにすがって、また同じだったと墜落する。そうしている内に月日は流れ、歳を取り、諦観だけが残るのだろう。だから結論は最初の最初に書いた。日常をより正確に繰り返す事。それ以上の幸せは無いと思う。

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