Dog ears

更新時間 09:30、10:30、11:30、13:30、14:30、15:30、18:30、19:30

無題

結局人生の正解は自分で作るしかない。 - ニート気質な僕の生きる道

 一昔前には「自分探しの旅」などというワードが流行っていた時期があったが、気付いたらそんなワード全然使われなくなっていて、この間などは馬鹿な事を書いているジャーナリストが「真意」などという言葉を使っていて笑ってしまう。人間というのは非常に多面的な生き物だ。「Aは学生だ」と言っても、それは何ら真意にはならないし、更に掘り下げて「Aは何部に入り文系に進んでいる」などと書いても、やはり物事の本質などは言い表せない。あるいは逆に、そう定義する事で矛盾を生んでしまう場合だってある。真意、本当の自分、人生の正解。それはあくまでも「概念」に過ぎない。人間が頭の中で屁理屈をこね併せて作り上げた机上の概念だ。だから、そんなものは自分の頭の中にしか存在しないし、だからその場その場で姿形はどうにでも変わる。昨日は「これだ」と思ったものが、今日にはまた違っていて、明日には元に戻ったりなんかして。人というのはそうやって少しずつ変化しながら生きていくものであって、明確な輪郭など存在しない。だが、現実の在り方というのはまた違って、一つ一つの問題には明確な答えがある。金が無い、働け。飯が無い、作れ。寂しい、恋人や友人を作るかペットでも飼え。どんな問題にも明確な答えが存在する。例えそれが「今はどうにもならないから後回しにしろ」というものであっても、答えは答えなのだ。だが人というのは弱いもので、その答えから目を背けたがる。もっと自分に都合のいい、苦しまず楽に出来る「本当の答え」が存在する筈だ、などと考える。まあ、運の良い人間などは、そういう答えがあるのかもしれない。あるいはその答えが真実ではなく虚構だったとしても、自分が最後までそう信じ続ければ、それは真実となり得るのかもしれない。だが結局、それは遠回りだと言わざるを得ない。大抵の人間は、遠回りした結果、結局最初に思い浮かんだ簡単だが苦しい回答が正しかったのだと悟るものだ。人間はそうやって少しずつ問題を片付けながら生きていく。その過程を昔は「自分探し」と言ったのだ。だがどうも最近は、先に言った、「最後まで信じたがる人間」が増えてきている、あるいは表面化してきている気がしてならない。私は彼らを見るとどうも不安になる。社会は「いつでもやり直せる」などと提唱しているが、「その一線を越えたら確実に戻れなくなる」という事柄は現実としてあるのだと私は考えていて、彼らはその「一線」の上に立っている様に見える。それを超えてしまったら、どうなるのか。答えは簡単だ。その欺瞞の為に自分を磨り潰す事になる。私は正しい、この道は間違っていないと何度も何度も言い聞かせる内に、自分の在り方までそれに引きずられて変容して、「本来の問題」自体が消えて、元には無かった別の病変が生まれる事になる。まあそれも「生き方の一つ」だと言われればそれまでなのだが。「自分探し」というのはあくまで過程であって、目的にしてはいけないのではないか、と私は常々思うものである。

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