無題

 最近、ネットを眺めていて、「言葉で自己を表現する事がそんなに重要か?」という問いを何となく口で弄んでいる。自分はとかく趣味が多い。自転車に乗り、バイクに乗り、車に乗り、ランニングをして、筋トレもして、書を書き、葉巻を吸い、酒を飲む。そのどれも自分の人生において重要な物事であるが、それをネットで文字に起こす気は無い。言葉は所詮言葉だ。万の言葉を用いてその趣味の素晴らしさを説いたところで、一度もそれに触れた事の無い人間の心を動かす事は難しく、そもそも動かす意義を感じない。「やりたければやればいい」の一言で済む。ネットは言葉で動いている。それは凄まじい力を持つが、反面では箱庭の中の戯れ言に過ぎない。みんな知らず知らずの内に「言葉が趣味」になる。好きな事を言い、正しい事を言い、それが評価される事に喜びを見出し、「それが自分だ」と胸を張る。だがそれは、「相手ありき」の姿勢ではなかろうか、と自分は思う。確かにそれは社会的な動物である人間としては健全なのかもしれない。それで救われている人も少なからずいるだろう。しかし、それはどこからどう見ても不自由だ。反感を買ってはいけない、論理的でなければならない、感情的になってはいけない。ネットには様々なルールがある。そこに10年以上浸かってきた自分などはもうその習慣が頭に染みこんでしまっていて、その上で吐き出される言葉を見ても、「これが自分だ」とは思えない。それは明らかに自分ではない。自分という思考回路の末にひねり出された屁理屈でしかないそれを前にすると、苦虫を噛み潰した様な気分になる。ある意味で自分はネットに殺されたのだと今では思う。昔の自分は、本来の自分は、こんな姿ではなかった。今更何を言っても無駄だし、その変化を否定するつもりもないが、ネット上の言葉に対する不信感は今後も増える一方だろうなという感慨は否めない。

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