Dog ears

更新時間 09:30、10:30、11:30、13:30、14:30、15:30、18:30、19:30

無題

 人の憎しみとは一体何なのだろうと時々考える。詳しい事は省くけれど、自分には長いあいだ憎んでいる人間がいる。最近、もうそろそろ優しくしてあげたらどうだとある人から言われた。頭では分かっている。相手も別に極悪人というわけではないし、ましてや年寄りだ。言葉の上の話くらいさらりと流して頷いてやればいいのにと自分で思う事もある。そして自分はどうしてそこまでして憎んでいるのだとも考える。そして考えれば考えるほど、中身は虚ろだと感じる。憎むだけの理由はある。表現を選ばなければそれなりに悲惨な言葉でも表せる。けれど、あまりにも時が過ぎた。自分自身、「そんなもの」と鼻で笑える程度には風化している事には気付いている。だから憎しみと呼ばれる「感情」はあってない様なものだ。当て擦りさえされなければ、受け流しも出来る。しかしその反面、その憎しみと幼い頃から長く付き合ってきた自分がいる事も事実だ。それは憎しみでもなく、怒りでもない。感情ですらないかもしれない。言うとすれば、それは「衝動」や「本能」と言った方が正しい。「自分ではない何か」がそこには巣食っていて、理性を塗り潰し人を獣へと豹変させる。そう、獣だ。多くの人はそれはただの表現だと思うだろうけれど、これは言葉通りの意味に受け取って欲しい。理性を失うと、人は歯や爪といった部分に意識が集中し、まるで犬や猿になった様な感覚に陥る。感情や理屈などは全く通用せず、ただただ相手を噛み砕きたいと思う。そういう衝動が、自分の中にはある。それはとても否定し難く、また否定したところで何の意味も無い。理性でも感情でもないものを相手にどう向き合えばいいのか。これは正直、強迫性障害との付き合い方と似ているんじゃないかと思う時もある。けれどそれは、理性の敗北を認める事であり、また自分の大切な部分を放棄するという事でもあり、中々認め難い。病気を病気として治すという考え方は、慎重に扱わないと、時としてある種の尊厳を踏み躙る行為にもあたるからだ。更に時が過ぎて、この衝動すら擦り切れた頃、また違った見方が出来るのかもしれない。そう思いたい。

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